オーディオは本当に進歩しているのか
これは私の人生観の様であり、あくまでも主観的な考えです。
進歩しているとは言いがたい、むしろ音色は衰退していると思う。昔から販売戦略の為にスペックばかりが先走っている、そんなふうにしか思えない昨今のオーディオ業界。
もっと骨のある音を追及するメーカーが現れないものだろうか?確かに現代のハイエンドオーディオは、ヴィンテージ程努力もしないで、簡単にそこそこの音を構築出来る様になって来ては感じる。
しかし、些か面白味にかけている気がする。ヴィンテージオーディオはある観点からみると確かになかなか上手く鳴らない。
つまり古いからだと思われているのかも知れないが。元々はなかなか上手く鳴らない、難しいが故に面白かったのではないか?
それを血の滲む様な個々の努力で補い、上手くバランスさせて鳴らしたのが元々のオーディオではなかったのか?
セッティングや、端子の清掃や、しめかた、トーンアームの微調整等で音はコロコロ変化する、そんなものがオーディオだった様な気がする。
しかし現代のハイエンドはどうだろうか?使っているもののスペックの優劣だけで音質が決まってしまう。
私には何の魅力も感じないのである。しかし、確かにウエスタンスピリッツが鳴らしたJBLは作られた年代は古い。
それでも粘着質に突き詰めて鳴らしてみると、まるで現代のハイエンドですら到底成し得なかった音が鳴ったのもまた事実なのである。
ウエスタンスピリッツのJBL4560BKはまるで現代のハイエンドの音の方向なのであるが、今の様な音にするまでには、大変な苦労があった。
しかし、ただひとつ違うのは、ウエスタンスピリッツの特長である音の濃さ(密度)である。現代のハイエンドは、ウエスタンスピリッツサウンドと比べ、音が綺麗でツルンッとしているだけで中身が感じられないと思う。
確かにソナスファーベルの最高機種のスピーカーは私も良いとは思う。しかし音は薄く感じる、音質は確かに優れている。しかし、聞いていてつまらないのである。
そう、音の芯みたいなものが全く感じられないのである。現代のCDプレーヤーもそんな雰囲気である。
昔のマランツCD‐15やフィリップスのLHH‐800Rの様な生々しさが現代のCDにはないのである。
要は音を作る本物のプロがいなくなってしまったのではないか?そう感じる。スペックや部品の品位にばかり思考がいってる気がするのである。
聞きたいのは音楽であり音ではないのである。しかし、好きな音楽を少しでも違和感なく聞きたい、つまり純粋に音楽に浸りたいが為に私はここまで努力を重ねて来た。
そんな私の努力を嘲笑うかの様に、現代のハイエンドは高額で君臨している、そんな風に個人的にかんじるのである。
しかし、誰が何と言おうが、良い音の定義は存在するのである。
それが証拠に、どんなにご立派な現代のハイエンドをお使いになり、はじめは自信を持ってウエスタンスピリッツにご試聴にこられた方逹も、みなさんウエスタンスピリッツサウンドにひれ伏した、これが総ての答えの様な気がする。
現代のハイエンドは大切な何かを忘れ、スペックだけに頼った頭でっかちの人達が作ってしまった空虚な世界である。
ハイエンドオーディオの音は、確かに余計な付帯音が少ない。しかし素敵な低音の正体、それは付帯音なのです。
付帯音や定在波がなければ、低音は鳴って聞こえないのです。聞かれる距離とスピーカー迄の距離が、素敵な重低音再生の鍵となっているが、誰も真にそこに気が付いていない。
安易にスーパーウーハーを追加するから、尚更素敵な本物の重低音が鳴らないのです。
しかし、センスのない引き締まらない重低音は、ウエスタンスピリッツは不用と考えます。
付帯音がありすぎても、無さすぎても、オーディオはつまらない音になってしまうとウエスタンスピリッツは考えます。
よって現代のハイエンドは磨きをかければ更なる扉をあける事が出来る。つまり現代のハイエンドとヴィンテージオーディオとの融合が大切と感じる。ウエスタンスピリッツはネットワークの部品には現代の優れたスペックを求めた。
今のところ現代のハイエンドオーディオは、間違いなく音に根性がなく、衰退していると感じる。
簡単に鳴らないからオーディオは楽しいのです。ありふれたあり得ない機材からあり得ないとんでもない音を鳴らす、これが本来のオーディオだと思います。
現代のハイエンドオーディオは、値段が高価なだけで、あまり進歩しているとは言えない。