忘れる
本日は認知症を患い、今は離れた施設で暮らす母のお話です。
今住んでる家を建て替えようと、家族で色々話し合っていた頃から、母がおかしくなってるのに気がつきました。
何を話し合っても全く覚えていないのです、そして家を建てるには、これまで住んでいた家を壊さなければなりません。
当然いらない荷物は捨てなければなりません、母を見ているといらないものを箱につめては出す、その繰り返しでした。
「長年住んで来た家にも思い出があり、なかなか心の整理がつかず、年寄りとはこんなものだろう」そう思っていました。
しかし住宅ローンがなかなか通らず、二年でやっと通ったのですが、いざ引っ越しとなったその時、母の荷物は全く整理されていなかったのです。
そして料理が出来なくなっていました、新しく建てる家の床材や壁や畳等、自分で決める事が出来ず、それを求めると切れたのです。
しかし父は先へ進まないので、母の荷物を捨てたのだと話していました、それでもかなり残っていました。
私が父に「母さんかなりおかしいよ」と話しました、父は「最近俺も困ってるんだ」と言ってました。
「何か聞いても理解しようとしないし、問い詰めると切れるんだ、まあ色々あり混乱してるんだろう、そのうち落ちつくから大丈夫だ」そう言ってました。
そして家が建ちました、しかし一緒に住むようになり、母のおかしな行動が日増しに目に付くようになって行きました。
独りごとを一日中言ってるのです、内容を聞いてると、若い頃出来ていた事が出来なくなった自分に腹を立て、それを責めているのです。
父は新しい家をとても気に入り元気になって行きました、しかし母は何が気に入らないのか「前の家は畳も柔らかく住みやすかった」と私が居ない所で家内を責めていたのです。
そしてあまりにおかしいので、みんなで母を脳神経内科へ連れて行ったのです、アルツハイマー型認知症との診断結果でした。
そこで初めて母の事を理解しました、病院の診察の中での検査で「桜、猫、電車これを覚えておいて下さい」これを記憶しながら100から7をひく検査です。
普通の人なら即座に「93」と答えます。
しかし母は「87かな?」と答えました、そして先生が「先程私が話した三つの言葉を覚えていたら応えて下さい」と母に質問しました、全く応える事が出来ず、母は無表情になりました。
そして今の季節を聞いてもトンチンカンな応えしか出来ません。
私は思いました「認知症だ」と、私は実の息子が故それまで認められなかったのです。
でもハッキリしました、母の記憶は一秒位しかない事に、それから八方手を尽くしましたが、母の認知症はどんどん進みました。
認知症の介護は、乾いたサラサラの砂を手ですくうようなものです、あの時の父の諦めたような顔を生涯忘れる事が出来ません。
我が家は家族四人でした、家を建てて一年目の正月はまだ父も元気で楽しかった。
父は毎朝ご飯を作れない母の為に、ご飯を炊き、おかずと味噌汁を作っておりました、父が母の為に作っていた味噌汁の香りは、今でも忘れる事が出来ません。
そんな優しい父の事を母は「頼んでもいないのに美味しくないご飯を毎朝勝手に作って私を早く起こす」と文句ばかり言ってました、でも父は母に反論一つせず、毎日父が作る味噌汁の香りがしていました。
そんな父も二年目の暮れから体調を崩し、それから入退院を繰り返すようになり、越してから三年目の六月に旅立ちました。
父が旅立つ時、私と母で看取りました、家内は僅かに間に合いませんでした、家内と父はとても性格があっていました、しかし母は三年経っても未だに「父さんは入院している」と施設で話しています。
悲しいですね。
そして思います「まともだった母はもう居ない」悟りました、しかし私はその事実を認める事が出来なかったのです。
週に一度位の間隔で、母と往復二キロ位の所にあるホームセンターまで歩いて行ったものです。
家から母を連れ出すのは二時間位かかり大変でしたが、何とか騙し騙し連れて行ったのです。
私は思いました「あと何回一緒に行けるだろうか」と、しかし母は出る時はぐずるのですが、私と歩き色々な人や景色をみたり、話す事でだんだん若かった頃のように普通に話せるようになるのです。
とても不思議でした、そして「ひょっとすると繰り返す事で母の認知症は、治らないまでも良くなるのでは?」と思える位の状態になるのです。
でも帰宅して三十分もすると、また元に戻り普段のおかしな母に戻ります。
音楽もよく母と二人で聴きました、母は歌詞カードを読みながら聴いてました、曲だけを聴いても歌詞が頭に入らないのだと思います。
字を読めると言う事は漢字は覚えているのです、つまり若い頃の記憶は比較的鮮明ですが、ここ二十年位の記憶が全くないのです。
近所の方のお話では、母が認知症みたいになったのは、ここ二十年位前からだとの事です。
思いおこせば確かに、かなり前から母の行動は少しおかしかったのです。
冷蔵庫の中には何時もたくさんのカットレタスと、トマト、小松菜が入っていましたが、腐ってました。
そして同じ醤油が中途半端に開いてたくさんありました、買ったことを忘れてまた買ってきてしまうのです。
若い頃あれだけ好きで入っていたお風呂に入らなくなりました。
頭や身体からは何時もアンモニアのような異臭がしていました。
デイサービスも試しましたが「今日は熱があるから」と言って勝手に断ってしまいます、いくらデイサービスの方が介護に慣れているとは言え本人に断られてしまうと、それ以上介入出来ません。
その時に私がたちあっても無駄でした、多分退屈で嫌だったのでしょう。
そしてとうとう便失禁が始まりました、家から連れ出すのも一大事なのに、パンツをとりかえるなどとてもではありません。
考えてみました、恥ずかしいのと、母の人間としてのプライドだったのです。
そのパンツは、母が施設に入った後、家内が部屋を整理するとき、たくさん丸めてあちこちに隠してあったと聞きました。
しかしそれもその場限りで、本人は後で片付けようと思ったのでしょうが、総て忘れてしまうのです、しかし必ずそうする理由があると思うのですが、どんなに考えても常人には理解不能です。
総てを忘れてしまう、これは本人にとって幸せな事なのかもしれません。
認知症になった人がどの様に人の言葉を理解し、どの様に世の中が見えてるのか、ある程度医学では分かって来ているみたいです、しかし根本的に治る事はないようです。
どうにもこうにもならなくなる前に、施設のお世話になることを実行にうつす事が、ご本人の為だと私は思います。
認知症の方の介護は悲惨を極めます、我々も少し頑張り過ぎたのです
市区町村の包括センターへ行き相談する事をお薦め致します。
人は誰かに必要とされたい、認知症の方も同じです、とは言っても誰かがついていないと何をするか分かりません。
その扱いがご本人に「自分はもう誰からも必要とされていない」そしてとても不安になります。
そこから認知症は加速的に進むといわれています、そこを理解してあげる事が大切ですが、ついつい怒ってしまう、怒っても分からないのだから仕方がない。
しかし怒るのは親子だからです、私もそうでした、しかし私が強く怒っても数秒後、母は私への愛情だけは強くあり、私の意見だけは絶対的であり、私について来るのです。
かわいいやら切ないやら、何度独りで泣いたか分かりません、同じ事を短時間に何度も話したり聞き返したりするようになったのが、母が認知症と気付いたきっかけでした。
何度も書いて来ましたが、早く気づき病院で診察を受け結果が出たら、理解してあげる事です。
在宅介護で、などと思っていても自宅で介護は出来ません、生まれたての赤ちゃんはまだ弱いけれどどんどん成長していきます。
しかし認知症の方はその逆と思って下さい、子供に戻って行くように進んで行きます、あきらめながら包み込む、自分を生んで育ててくれた、それだけは事実です。
母は認知症になってしまった、しかし今では感謝しかありません、あとはこちらの踏ん切りであり、後悔はしたくない。
しかしこちらにも生活があります、選択肢はありません、施設のお世話になる、これが一番お互いの為だと思います。
両親と暮らすために建てた家、一階にはもう誰も居ません。
少し寂しい、でも今私の心は穏やかになって来ました。