歳をとると普通の事が幸せになる
今日のお話はオーディオと無関係である、そしてこれはあくまで一人の男の勝手なつぶやきです。
若い頃、歳をとるのが嫌だった、でも歳をとった、最近いつも感じるのは、特に良いことも悪いことも何にもない、静かなありふれた平穏な一日、これが本当はどれほど良い事なのだろうと言う事である。
人は過去を振り返り、叶わなかった夢と現実との帳尻を心のどこかであわせている、これで良かったのだと、そんな気がする。
若い頃、大人に言われた、君には無限大の可能性がある、将来、努力次第ではどんな人間にでもなれる、誠に無責任な言葉であると思う。
しかし今思っている、本当は子供の頃から何となく現実は分かっているし、人は自分が思い描いたとおりに生きようとする、しかし色々なしがらみや個々の能力の差をつけられ、結局ねじ曲げられていく、スタートの時点でその道は多分決まっているのだ、自分がそうしているのだ、ただ回り道をする事がある、その考えを誰よりも理解してくれたのは、私の場合、家内なのである。
この歳になってもまだ、私は夢の途中である。
今日書きたいのは家内の事である、私は大の愛妻家だ、でもその出会いの確率は、たまたま放り投げた針の穴に糸が通るなんて簡単なものじゃない、まさに点と線の合わさった接点である、本当に数奇なものだった、今考えてもあり得ない、しかし私達は出逢った、暑い夏の夜だった。
しかし今、ただ一緒にいるだけで私はもう何にもいらない、そう思う、ただお互い何かを犠牲にして同じ時間を共有して楽しんでいる、その総てがとてもいとおしいのだ。
たまに考える、もし家内が先に天に召される様な事があったらと、私は行き場を失うだろう、しかし例え短い時間でも構わない、本当に分かり会えた、その事実と時間は消えないだろうし無駄になることはない。
何年か前に田村正和がドラマに出ていた、そうか、もう君はいないのか…観ていて自分の感情と重なりパニックになった。
ああもしてやりたい、こうもしてやりたい、色々考えているが、殆んど何もしてあげられてないのだ、多分これからも。みんな亡くしてから思うのだろうか?後悔はしたくないのだが、それが現実なのではないだろうか。
短い時間でもかまわない、ただ分かりあえた、その事実だけを胸に、残された方は辛いだろうが、強くしっかり前を向いて生きていかなければならない。
それでも多分時が経ち、少しずつ悲しみは薄れ、悲しかった事すら想い出と共に忘れていくのかも知れない。
悲しい事なのだが、多分そうなると思う。
だから今を大切にしたいと思う、相手を本当に大切に思うなら常に小綺麗で健康でいる事だ、それ以上は相手も多分望んでいない筈だ、私がそう家内に望んでいる様に。
お金は確かに大切だ、ないよりはあった方が良いに決まっているが、でもそれだけに心を奪われると、お金を得るかわりに、本当に大切な何かを失う、私は勝手にそう信じている。
人間嫌な事を無理矢理する事はない、嫌な事をしているとひしゃげて顔に出る、へんな考え方や、うらぶれた顔の年寄りにはなりたくない、自由に生きて色んな事を知りたい。
今までの歴史の中で、真実は常にねじ曲げられている、私はそれが嫌なのだ、家内は私のその考えを本当に深い所で理解してくれているただ一人の女性であると思う。
私は若い頃とてもチャランポランだった、しかし最近少しずつ変わってきた、それは間違いなく家内のお陰だ、だから私は彼女を裏切りたくない、今出来ることを、やるべき事からやり、そこから次へ行く。
今食べたい物を明日に回し、明日やる筈の事を今日やる、しかし無理はせずに、この生き方が今の私のスタンスになったのだ、人はいくつからでも変る事が出来る。
最近心が穏やかで静かになった、そんな私を見て家内も微笑む。
素晴らしい、このまま、ずっと、このままがいい。
出逢ったそのときから別れのカウントダウンは始まっている、一緒にいられる時間は確実に短くなっているのだ、だから今を慈しみ愛でたいのだ。
この考えは間違えているのだろうか、答えはどこにもない筈だ。