越してきて
三年前に他界した父親は堅物でした、子供の頃から父には私がいい加減な人間に見えていたのだと思います、でも何度も住んでいた調布から千葉まで通う私に折れてくれたそんな感じでした。
両親が住んでいた実家を新たに一緒に住む家に建てかえると言う話しです、母は私達夫婦と一緒に住みたがっていました『父も母も歳をとり何かあってからでは遅い、そして我々夫婦も歳をとった、今が最後のチャンスだ』私達は話し合いました、しかし家内の友人は反対していました、家内が苦労するのは目に見えているからです。
事実思った結果になった訳ですが、この家を建ててから私がしっかりしたのも事実です『父さん母さんの面倒を俺達が最後までしっかり面倒をみるから』との約束でした。
でも元気だった父と楽しく暮らせたのは実際一年と半年位でした『帰って来て良かった』そう思ったものです。
父との楽しい時間はあまり残されていませんでしたが、ずっと永久凍土のように凍っていたお互いのわだかまりは完全に解けて私の仕事や、私がいいかげんな人間でないことを伝える事が出来たのです、父は私が遊びの延長でケーブルを作っていると思っているふしがありました。
と言うか私が勝手に父をシャットアウトしていたのでした、それが分かったときは父と二人で大笑いしたものです。
父は二年目の暮れに風邪をひき、そこから急に腎臓の機能が落ちて来ました、そしてよく父を連れ病院通いをしたものです、その頃母は認知症で要介護1でした、父は日増しに弱って行きました、入退院を繰り返し頑張ったのですが、三年前病院で誤嚥性肺炎で呆気なくこの世を去りました、実に穏やかな最期でした。
僅かに間に合わなかった家内は声を出して泣きました『ごめんね間に合わなかった』
家内と父はタイプが似ていてあまり語らずとも心が通じあっているようでした、父の葬儀が終わってから家内と二人リスニングルームで声を上げて思いっきり泣きました。
その頃の母は既にかなり認知症が進んでいましたが、まだ自分でご飯を炊いていました、しかし父が亡くなった事を理解していなかったのです、何度『母さんは喪服を着て父のお通夜お葬式納骨も行ったんだよ』と伝えても、五分も経つと総て忘れ、一日中仏壇にあげているお花の水やご飯をずっと取り換えているのです、
そして疲れてしまうのです。
『普通はそんな事はしませんよね』しかしそれが認知症という病気です。
しかし大切な母親なので自宅で介護していたのですが、遂に家内と二人で行って来た自宅介護に限界が来ました。
そしてミンカイをとうし埼玉県行田市の介護施設へ入居させたのです、少しして母の介護度は要介護3になりました、そして去年の十一月施設の中で夜中に額から転倒したらしく、介護士が発見した時は酷い顔になっていたと聞きました。
結局我々夫婦が千葉の自宅から行田の施設まで車で向かい、病院まで搬送し、その病院から検査の結果、熊谷の病院まで救急車で搬送され検査の結果、手術となり入院となりました。
それからも施設で暮らしておりましたが、頻繁に施設から連絡があり血圧が高いとの事、私は脳梗塞を心配していました、三日後母の右手が、ダランとしていて動かないみたいだと連絡があり、主治医が脳梗塞の疑いありとの判断で、そこから熊谷の脳外科医院に救急車で緊急搬送され脳梗塞と判明。
多分少し前から脳梗塞を発症していたのだと思います、みなさんご存じのとおり脳梗塞は発見されてからの対応時間が問題、二回とも施設の対応が遅すぎたのです。
母は認知症です、しかもアルツハイマー型です、アルツハイマーの特長として、新しい記憶から消えていき最後は総ての記憶がなくなります、脳梗塞を発症した母の記憶は更に薄れたようです、生きる気力も低下したようです、日時によりますが私の事も忘れてる時もあります。
そして悲しい現実ですが、年齢的にもう治療のしようがなく今入院してる病院も何時までもいられる訳でなく、お世話になってきた施設へも戻れなくなってしまいました。
とは言え二度も大切な母にこのような扱いをした施設へは戻したくないのです、色々あり、とりあえず母の介護度の見直しをしなければ前に進まないので、九月三日にケアマネさん立ち会いのもと入院先の病院内で、介護認定員の審査を受けます。
そして母の介護度が決まるまでこちらもそれなりの動きをしなければなりません、このような時に私の足腰が痛くてはお話しになりません、その為に今整骨院へ通っているのです。
この文章を読んでいると、苦労を背負う為に建てた家のように感じるのでしょうが、やはり導かれたのだと思います、今、今後の母の事を思い、二人で最善の方法を考えています。
そしてそれでも私はオーディオケーブル屋さんなのですこれが天職だと思います、母の事と平行して気を抜かず音の良いケーブルを作って行きます。