古き良き秋葉原
私ごとですが、若い頃の事を語ります、少しお付き合い下さい。
高校を卒業し、二部の大学に合格しましたが、昼やる事がなくアルバイトをする事になりました。
そのバイト先にオーディオマニアの先輩がいました、私はオーディオに憧れを持ちました。
一番オーディオに近付くには、秋葉原でオーディオの販売員になることです。
しかし、実際店頭にたってみると、何故だかラジカセの売り場に行かされてしまい、つまらなかったのでやめてしまいました。
何故つまらなかったのか、そのお店のアルバイトとして入ったのに、何故だか勝手にパイオニアのヘルパーにさせられてしまったのです。
次もS無線で、またまたパイオニアでラジカセのヘルパーに…そこも三ヶ月で辞めてしまいます。
そこからマネキン会社に所属して仕事をもらい、十件位のお店を転々としました。
所得は店を移る度に上がりました、頑張ったのもありますが、そう言った時代だったのです。
今は秋葉原も勤めていたお店も殆ど倒産してありません、寂しい限りです。
そしてヤマギワで松下通信特機の販売員になり、カラオケ道場やサウナや映画館や大手の会社の保養所やディスコへ、三管式プロジェクターやRAMSA(PA音響機器)や監視カメラの取り付け販売を していました。
現地へ伺い、見積もりをとっては、販売と取り付けに行きました、その内容とはとてもシビアで責任重大な仕事でしたが、その分給料も良く、やりがいのある仕事でした。
その頃のシビアな仕事が今の私を育てたのだと思います。
私が取り付けから戻ってくると、皆さん待っていてくれ、秋葉原昭和通りの方の養老乃瀧(通称:クラブ瀧)や、秋葉原やっちゃ場の入り口に夕方から出る、屋台のおでん屋さん(通称:幌馬車)へ毎晩のように行って現場の話をしながら沢山食べて飲みました、楽しかったです。
私がヤマギワを去るとき、実に沢山のメーカーに是非うちの会社にきてほしいと頼まれましたが総てお断りしました。
もうノウハウも持ってたので、人に使われたくなかったのだと思います。
それからも何度か秋葉原へ戻った事もあったのですが、帰る度に寂れていき、何の魅力もない街になってしまっていったのです。
もうやっちゃ場(青果市場)もなく、養老乃瀧も新しくなり、幌馬車もありません。
よく現場が終わった後に行った、上野のサウナもなくなりました。
この頃が正に、バブルの最後の方だったのだと思います。
私が配線に通った現場(ディスコ)での事、オープン前日に他の業者に天井裏の配線何百本をバッツリ切られ、息がつまりそうな狭い所で一晩中埃だらけになり、切れた配線を半田付けしたこと、今となってはよき思い出になっております。
だから私のオーディオは人と違い、絶対でなければならないのです、スタートが少し違うのだと思うのです。
昔の秋葉原はとっぽくて楽しかったのです。