アウトローのオーディオ人生
私は、幼いころから他人と集団行動が出来ない。いわゆる典型的なわがままで危ない不良だった。同級生の父兄からは、あの子だけとは付き合っちゃ駄目、ずっとそう言われた。いつも暴力的で、友達はいなかった。なのでいつも一人で好きな事だけをしていた。
そして私は、賭け事も嫌いである、お金をセコく賭けるならば、自分自身に賭けたいからである。賭け事は何か、他人のふんどしで相撲をとるようでダサく思え、気に入らないのである。
そして、ずっとオーディオが好きだった訳ではない、興味はあったが、どちらかと言えば音楽と楽器を弾く方に興味があった。
しかし昔、アルバイト先で知り合ったオーディオマニアの鳴らすJBL4343で聞いたジミーヘンドリックスのギターの音、自分にはこんな音は鳴らせないと悟り、あっさりと諦めてしまったのである。
それから急にギターを弾く時間が減っていき、オーディオを揃え、その深さを知ったのである。
そして、秋葉原でオーディオ機器の販売をしたかった。オーディオに囲まれていたかった。販売の仕事は、はじめてだったが、私はとにかく自分に全く自信がなかった。でも36歳まで真面目に高級オーディオ販売の仕事をしていた。
とにかくバブル景気で街は毎日煮えくり返っていた。25歳の頃だった、秋葉原のヤマギワの4階AVフロアーで松下通信特機の販売員をしていた。
大型三管式ビデオプロジェクターや、カラオケやPA機器の販売と、取り付けの緻密な仕事である、ここで私は一気に自信をつけた。
売り場の上司がとても柔軟な方で、私のやり方や音に対する姿勢をとても高く評価してくれたのである。見積もりや現場の確認等、ボーッとしていてはお客様に多大なご迷惑をおかけする。実に大変な仕事だった。しかし、楽しかった。
その頃である。トップ販売員の私に、たくさんのメーカーは挙って、とにかく売って欲しかったのだろう。
どんな高価な機材であろうと、無料で期限なして貸してくれたのである。
だからこの歳(今年54歳)で色々知っているのである。自分で購入したものもあったが、当時世界の名機を私は殆ど実際に自分の部屋で聞く事が出来たのである、とても幸せだった。
この頃である、いくら高価な機材でも音は大きく変わらないと気付いたのである。
そして自信をつけた私は、36歳の時に、先ずはガラードやGASのテァドラやアンプジラを中古で仕入れ、独立をしたのである。
その後、埼玉で、師匠と呼べる方と知り合い、鍛えられ、今のオーディオケーブル屋さんになったのである。
しかし、趣味を仕事にすると言う事はとても大変な事だと後に思いしる事になる。
元々妥協する事が出来ない性格なので、思考が徹底的に細部へ細部へと入っていってしまい、常に音への不満があり、休む事が出来ないのである。
それが今の私であるが、趣味だけでオーディオを楽しんでいるだけならば、みなさんと同じに今も色々買い換えているだろう。
私の今の仕事の基礎になったのは、秋葉原のヤマギワと師匠と出会った影響がとても大きい思う。
オーディオは、どんなに高価な機器を揃えても簡単に鳴らない。それが分かったからである。
そして、どんな作業をするにも、己の手にしっかりフィットした優れた工具が必要になる。私は次々に工具を揃えてきた。
今は工具が部屋を埋め尽くしている。しかし経験とその工具のお陰で、毎回優れた実験精度を出せるのである。
オーディオを生業とすること、それはとても大変な事だが、今の音を聞いていて、大変だったが確実に作業出来てる自分がいる、とても誇らしく思う。
人はいきなり最高点には辿り着けない。三十年かかり少しずつ積み重なったノウハウと工具やレコードやCDやシステムの総ては、私の何よりの財産である。
しかし、老婆心から言おう。生半可な気持ちならば、簡単に趣味を仕事にするのはやめた方が良い。大変な事になるからである。
そして毎日ブログを公開するのは、実に根気がいり、大変な事である。