分かっていない自分を認める事の大切さ
世の中を冷静に見渡してみると実に色んな事がある。しかし、人は自身に経験から来るのか何なのか分からないが、妙なプライドを持っている。そして、なかなか分からない事を分からないと素直に認める事が出来ない。
しかし、そのままではその時は取り繕ったつもりでいるのかも知れないが、それは逃げである。あまりおつむが良いとは言えない。
なぜならば、知らない事を知らないと言えず、知ったかぶりをして突っぱねれば、お話はそこでお仕舞いになってしまう。
人の言葉でも、ものの形でも、見方をかえれば全く違う形や言葉になるものである。
それを知らずにずっと過ごすか、その時は、頭を下げて相手に教えを乞うて知識を増やすか、さてどちらが優れているだろうか。
私は後者である、知らないことは恥でも何でもない。たまに知らないことの言葉尻を捉え、これ幸いに攻めてくる方も中にはいらっしゃるが、それでも分からない事を放置するよりはましである。
しかしこう書いている私も以前は、知らない事を知らないと認める事が出来なかった。しかしいくら言葉でその場を取り繕ってみても、話の途中で必ずボロが出てそのみっともないこと。結局大恥をかく事になる。
私はこう考える。この世は総て幻である。人が作ったものや大自然が作ったもの、何一つとして永遠にその形のまま残るものがあるだろうか?何にもないのである。
地球上で我々人間だけが優れている、それは大いなる錯覚である。ただ人間には理性がある。しかし長い宇宙の歴史の中で、人類が栄えた時代などほんの一瞬である。
ならば知らない事を知らないと認める認めないなど、どうでもよく思えて来るが、やはりそうではない。
知らないことは少ないに越した事はない。誰かが書いた文を思い出した。空で水蒸気が結び付き、一粒の水滴が形成される。その水滴はやがて大地に落下する。人の一生とは天体からみたら、そんな程度の重さである。
ならばそれに心を委ね、ひねくれず人の話をしっかり聞いて、素直に生きてみないか?
知識は広がり何より楽しくなると私は思う。これだけたくさんの人間が一人一人全く違う人生を歩いているのだ。同じではない、全く見方が違うのだ。
知らない事があって当然である。雨が降ったらむしろ雨宿りもせず傘もささず、一旦ズッポリと濡れてしまおう。そのまま歩いていると、やがて必ず濡れた服はいずれ乾く。
知らない事をそのまま放置せず、分からない自分を認め、教えを乞うて下さい、そして真剣に聞いて下さい。しかし、人間興味のないことは頭に入らない。
しかし、嫌な事を無理にする事はない。嫌な事は貴方を痛めるだけである。見聞録を広め、もっと楽になって下さい。そうするとオーディオも見えてくる。